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イワン・カラマーゾフは有罪か

知人の文学者K氏から質問されたことをきっかけに,刑法学上の不作為犯論に関わって,少し考え込む機会があった。
彼の指摘するところでは,ドストエフスキーの長編には繰り返し登場する隠されたテーマがあるのではないか,というのだ。たとえば,『カラマーゾフの兄弟』における父親殺しについて,次男イワンは,父親が間もなく長男ドミートリーによって殺害されるかもしれないと予測しながら,それを防がずにモスクワに旅立つ。そのイワンのモスクワへの出発を,真犯人のスメルジャコフは,「殺せ」という暗黙の指示と受け取って,父親を殺害する,ということになっている。
K氏の質問は,このイワンのような行動が,当時刑法的にどのように評価されていたか,もっと端的には,当時の市民はそれが処罰されるべき行為であると見ていたのだろうか,またドストエフスキー自身はどう見ていたのだろうか,ということなのだが,残念ながら,このあたりのことに即答できるだけの準備はない。少し時間をもらうこととした次第。

問題は,今日の刑法上の議論としては,不作為犯論にかかわっている。つまり,上記の場合においてイワンは,すでに犯罪的な結果の発生に向かって事態が動き始めていると認識しており,またそのような事実を阻止する能力を持っているにもかかわらず,あえてそれに介入しない,このことをどう評価するか。
刑法上,処罰されるのは犯罪的な結果と因果関係を持つ,人間の行為だけだが,この場合,外部に表れた行為(「作為」)はないので,行為しなかったこと(「不作為」)が刑法上「作為」と同じ意味を持つ範囲がどの範囲であるかが問題となる。
この点,一般的には,法律上要求された一定の「作為義務」に反する不作為により,本来は作為により犯されるはずの罪が犯されたと考えられる場合であるとされている。したがって,最大の問題は「作為義務」の根拠となる。
そしてこれは,(「保障人説」などの専門的な議論を脇に置くと)一般に,
 ┌法律上に直接の根拠あるもの
 │契約・事務管理の関係に発するもの
 └条理(要するに社会通念)と考えられるもの ― 特に「先行行為」
と分類されるのだが,むしろ,「これだけか」が問題となるだろう。
つまり,通りすがりに人が危難に瀕していることを目撃した者には,これを救うべく作為する義務はないのか,という点── ここに,おそらくは,ドストエフスキーも念頭に置いていただろう問題が生じるのだと思う。

この点についての刑法の一般的な議論は至って平板なもので,そのような者には道義的な作為義務はあっても,法的なそれはない,ということに尽きる。これは,民族共同体の利益を強調したナチスの時期などを例外として,ドイツと日本の刑法に一般的な捉え方で,おそらく,19世紀のロシア刑法の主流も同様だったろうと推測できる(一定の根拠はある)。
だが,そのような対応とキリスト教的な倫理の関係がどのように整理されているのかが,気にかかる。ドイツ刑法学の議論をそのままに日本に移入することでことは足れりとしている現状に問題はないのだろうか。作為義務や「保証人的地位」にかかわっての議論への,ヨーロッパのキリスト教的な精神文化の影響をわれわれは十分に読み込んでいるだろうか。さしあたりロシアは別としても,例えばドイツの。

ところで,自分自身ではなく,他の者が犯罪行為に及ぼうとしているのを知りながら,これを阻止しないという類型の場合は,「不作為による幇助犯」の問題となりうる。自分の子が第三者に殺されそうのを阻止しない親,自分の監護している子が嬰児殺を犯しそうなのを止めない親などを不作為の幇助犯とすることは広く認められており,わが国の裁判例にも,自分がその場にいなければXがAを殺害すると予知しながら,また他にXを制止する人がいないことを知りながら,その場を離れた隙に,XがAを殺した場合に,不作為による殺人幇助を認めたもの(大阪高判昭62.10.2)がある。
だとすると,先のイワンの行動など,これに当てはまりそうではないか。

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