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当事者主義の訴訟は

ちょっと確認したい点があって,学生時代から手もとにある平野龍一博士の刑事訴訟法の教科書を開くと,「当事者主義の訴訟は,合理的な精神を前提とする。」との一節が目に飛び込んできた。
続けて,「当事者主義訴訟は,国家権力を悪とし,『権限を持つものには権威を与えてはならない,権威を持つ者には権限を与えてはならない』とする思想を背景とする。そしてはじめから(すなわち,捜査機関の)権力の行使を制限しようとするのである。しかし,現在の都市化し,社会化した国家においては,国家権力をただ排斥するだけでは,すまされない。捜査機関に多かれ少かれ,権限を与えざるをえなくなる。これを否定して当事者主義の形骸だけを維持しようとすると,権力は法外の暴力となり『保障のない糾問主義』(Inquisitorial system without its guaranty)となる危険もある。そこで,むしろ権力に権限を与えて,そのかわりにこれを法的にコントロールした方が得策ではないかという問題がおこる。」
懐かしい平野先生の肉声を聴く思いがする。奥付で確認すると1958年初版・1967年初版第19刷となっている。であれば,現行刑事訴訟法の施行10年ほどの時期に,気鋭の刑事訴訟法学者としての先生が書かれた文章だということになる。正直,すごいなと思う。
この一節には,当時よく使っていた青い色鉛筆で傍線が引かれている── が,20歳になったばかりの僕は,何を理解したつもりになっていたのだろうか。

学部学生のコンパに付き合った後,これから季節はずれの花火で遊ぶという彼らと別れ,久しぶりに先斗町のウオトカ・バーへ。意外にも客は誰も居らず,ゆったりとマスターのNさんと世間話。最近はこれが人気があります,と勧められた《スタンダルト》は,たしかにずしりと手応えのある味だが,何かしら特徴がない。《スタリーチナヤ》を重くしただけのような感じ。これがスタンダルト(基準)か,と思うとつまらない。むしろ《デルジャーヴナヤ》の方が,僕には好みだ。まあ,実際には,ラベルそのままに颯爽とした《クバンスカヤ》を味わうことができないのなら,何でもよいのだが。
もっぱら《デルジャーヴナヤ》を注いでもらい,当事者能力の残っているうちに帰宅。


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